桂小五郎の潜伏地
2010/08/01
桂小五郎の潜伏地 豊岡市出石
「維新の三傑」の一人
桂小五郎をかくまった町

 何度も接近遭遇しながら、ついに新撰組が捕縛できなかった長州の大物、それが桂小五郎だ。池田屋騒動で逃げ、禁門の変でも逃げ切っている。維新の三傑に数えられるのは先の話で、当時のあだ名は「逃げの小五郎」。
 元治元年、禁門の変の後、小五郎は豊岡市出石の商人・広戸甚助の手引きで京街道を逃げ、豊岡市出石へ。この町で10ヶ月の潜伏生活を送っている。その間城崎温泉のつたや旅館にも湯治の為しばらく隠れていたようだ。現在、出石には7つの潜伏した碑がある。潜居先の中でも特別に「再生の地」の碑が立つ出石で小五郎は広江孝助と名乗り、荒物を商っていた。潜伏しながらも維新回天に向けて気力を充実させていた。観光ガイドのAさんは「博打好きで大きな借金も作ったそうです」と言う。博徒でもあった甚助に影響されたのかもしれない。それとも、京の動乱から心まで逃げたかったのか・・・
 潜伏を初めてから2ヶ月後、新撰組の追っ手が迫ると知ると、今度は城崎の湯治宿つたやに身を隠している。宿の一人娘タキを妊娠させたという話も残っており、ここでも小五郎の現実逃避の一面が垣間見えるようだ。

 探索の手が緩んだ頃、小五郎は再び出石に戻り、やがて慶応元年5月、再会した京の舞妓・幾松とともに長州に帰っている。藩の要職に返り咲いた小五郎は薩長同盟を締結し、倒幕の立役者の一人になるのだが、もし、小五郎の帰国が1年ほど遅れていたら、新撰組に捕らえられていたかも知れない。
 小五郎が出石を離れた翌年6月、新撰組の近藤芳助ら4人が出石を探索している。脱走した隊士、柴田彦三郎を追ってのことだ。柴田は捕まり、京の屯所で切腹させられるわけだが、小五郎に限り、運命の歯車はなかなか新撰組と噛み合わなかったようだ。

 桂小五郎は碁打ちが好きで出石の昌念寺で和尚とよく碁打ちをしていたようだ。

精神修業は剣道
2010/05/05
約25年前の記事です。

505龍馬の心得書
2010/03/14
 武芸によって、人間的に成長した竜馬は、江戸へ修業に行く。1853年3月 19歳。 父親与えた心得書がある。
                             修業中心得大意
一片時も忠孝を忘れず 修業第一の事
一諸道具心移り 銀銭を費やさざる事
一色情にうつり 国家の大事をわすれ心得違ひあるまじき事                                                  丑ノ三月吉日     老父                                 竜馬殿

504 龍馬の剣術修業
2010/02/13
 龍馬が江戸へいきたのは嘉平六年(1853)19歳。   剣術修業のため北辰一刀流へ入門。 佐久間象山の私塾へも通っています。この年は、アメリカ海軍東インド艦隊提督ペリーが黒船を率いて浦賀に来航したことでも有名。一時故郷の土佐に戻ることがありましたが、再び上京した安政5年には剣術修業を終え、免許皆伝を得ました。
 文久2年、土佐脱藩の直後に勤王党による吉田東洋暗殺事件が起きると、龍馬は犯人として疑われ、修業の場であった千葉道場に身を寄せます。勝海舟との出会いはこの時期。海舟の進める神戸海軍操練所の設立に力を尽くすとともに、神戸海軍塾の筆頭を務めることとなりました。
 10代後半という多感な時期に過ごし海舟へ弟子入りした江戸の街は、龍馬にとって今後の行動につながる重要な立ち位置を定めたところといえましょう。

No.503 龍馬と小五郎の試合
2010/02/13
坂本龍馬
桂小五郎 時は安政五年十月二十五日             

武市半平太のいた桃井春蔵の道場で剣術大会が行われた。
その日はもちろん江戸じゅうの名だたる剣術使いが集まっていた。ところがその中でも際立った好成績を残していたのが桂小五郎である。出てくる相手を次から次へとなぎ倒し、もう彼に立ち会う者は誰もいなくなっていた。
 そこでそこに出席していたものたちは、坂本龍馬を引き出して、小五郎の相手をさせようと盛んに働きかけた。
 この話は半平太が国もとに送った手紙に書いているのだが、それには「この日龍馬ことのほか元気いっぱいで。」と記されている。
 坂本龍馬と桂小五郎の試合については、残っている記録が多い。
 いよいよ、試合が始まった。立ち上がるや、双方、定法通り六尺の間合いをとって対決。桂は中段である。龍馬は、これは控え席から武市が見てひそかに驚いたことだが、片手上段であった。龍馬が、初めて取った構えである。
 武市は龍馬の片手上段を見て、
(ほう、意表をついたか。)
 龍馬らしい、と感嘆もしたが、ひょっとするとははじめから負けるつもりでいたか。不安だった胴があきぱなっしなのである竜馬は右手を高く上げ、左手は、腰に添えている。が、竜馬には理由がある。
 桂の剣は、その人柄に似て隅々まで理屈が通っている。彼の強さは、その大小の理を紳速に変化されるだけでなく、あくまでも理からはみ出ることをしない。
 竜馬は、逆に胴を馬鹿空けにあけた。
案の定、桂は戸惑った。
・・・・どうゆう料簡か。
 桂の竹刀に、疑念を出た。測りかねて、うごこうとしないのである。もともと上段というのは、当節、江戸三老剣一人といわれる桃井春蔵の得意法で、腹を思い切って出した見事な構えであった。が、それも諸手で、片手ではない。片手上段の得意は、江戸でたった一人しかいない。千葉の小天狗といわれた栄次郎で、これはそのかわり常寸よりも長い四尺の竹刀を用いた。
 ・・・・竜馬の片手上段など、みたことも聞いたこともない、というのが、当の相手の桂の本音だったろう。
 が、竜馬は撃たれ気でいた。一歩進めて。さらに二歩、三歩。桂はじりじりさがる。竜馬が追う。馬鹿胴は、いよいよひろがり、桂の目から見れば締まりを失った大口のように見えた。
 (撃つか)
 しかし、と桂はためらった。そのすきに、道場の隅まで桂を押し付けた竜馬が、無造作に飛び込んで、びしりと面を撃った。据え物を撃つように。「面あり」
 あっけなく、桂の負けである。かつらには、ないことだった。しばらく茫然としていたが、さては、ときがついた。
(あれは単なる馬鹿胴だったのだ)
 意味と理を考え過ぎて、かえって自分に自暴呪縛になり、自ら竜馬の刀下にさしのべてしまったようなはめになった。
 桂は竹刀を取り直した。直ちに撃ちこんだ。竜馬が受ける。あとは桂らしい俊敏苛烈な攻撃が始まり、竜馬んに息もつかせない。面、胴、小手と相手を休ませずに撃ちまくるのが、桂の得意芸である。
 竜馬もさすがに押され、受けては撃ち、避けては撃つがいずれも浅撃ちで、どれも一本にはならない。
 浅撃ちは、桂も同然だった。おそらく双方、二十合は重ねたろう。真剣ならば二人とも、深傷、浅傷、十数創は負って気息も耐えようとしているところである。
 最後に、桂は退きがわに竜馬の胴を音たかだかと撃った。

 「胴あり」

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