504 龍馬の剣術修業
2010/02/13
 龍馬が江戸へいきたのは嘉平六年(1858)17歳。   剣術修業のため北辰一刀流へ入門。 佐久間象山の私塾へも通っています。この年は、アメリカ海軍東インド艦隊提督ペリーが黒船を率いて浦賀に来航したことでも有名。一時故郷の土佐に戻ることがありましたが、再び上京した安政5年には剣術修業を終え、免許皆伝を得ました。
 文久2年、土佐脱藩の直後に勤王党による吉田東洋暗殺事件が起きると、龍馬は犯人として疑われ、修業の場であった千葉道場に身を寄せます。勝海舟との出会いはこの時期。海舟の進める神戸海軍操練所の設立に力を尽くすとともに、神戸海軍塾の筆頭を務めることとなりました。
 10代後半という多感な時期に過ごし海舟へ弟子入りした江戸の街は、龍馬にとって今後の行動につながる重要な立ち位置を定めたところといえましょう。

No.503 龍馬と小五郎の試合
2010/02/13
坂本龍馬
桂小五郎 時は安政五年十月二十五日             

武市半平太のいた桃井春蔵の道場で剣術大会が行われた。
その日はもちろん江戸じゅうの名だたる剣術使いが集まっていた。ところがその中でも際立った好成績を残していたのが桂小五郎である。出てくる相手を次から次へとなぎ倒し、もう彼に立ち会う者は誰もいなくなっていた。
 そこでそこに出席していたものたちは、坂本龍馬を引き出して、小五郎の相手をさせようと盛んに働きかけた。
 この話は半平太が国もとに送った手紙に書いているのだが、それには「この日龍馬ことのほか元気いっぱいで。」と記されている。
 坂本龍馬と桂小五郎の試合については、残っている記録が多い。
 いよいよ、試合が始まった。立ち上がるや、双方、定法通り六尺の間合いをとって対決。桂は中段である。龍馬は、これは控え席から武市が見てひそかに驚いたことだが、片手上段であった。龍馬が、初めて取った構えである。
 武市は龍馬の片手上段を見て、
(ほう、意表をついたか。)
 龍馬らしい、と感嘆もしたが、ひょっとするとははじめから負けるつもりでいたか。不安だった胴があきぱなっしなのである竜馬は右手を高く上げ、左手は、腰に添えている。が、竜馬には理由がある。
 桂の剣は、その人柄に似て隅々まで理屈が通っている。彼の強さは、その大小の理を紳速に変化されるだけでなく、あくまでも理からはみ出ることをしない。
 竜馬は、逆に胴を馬鹿空けにあけた。
案の定、桂は戸惑った。
・・・・どうゆう料簡か。
 桂の竹刀に、疑念を出た。測りかねて、うごこうとしないのである。もともと上段というのは、当節、江戸三老剣一人といわれる桃井春蔵の得意法で、腹を思い切って出した見事な構えであった。が、それも諸手で、片手ではない。片手上段の得意は、江戸でたった一人しかいない。千葉の小天狗といわれた栄次郎で、これはそのかわり常寸よりも長い四尺の竹刀を用いた。
 ・・・・竜馬の片手上段など、みたことも聞いたこともない、というのが、当の相手の桂の本音だったろう。
 が、竜馬は撃たれ気でいた。一歩進めて。さらに二歩、三歩。桂はじりじりさがる。竜馬が追う。馬鹿胴は、いよいよひろがり、桂の目から見れば締まりを失った大口のように見えた。
 (撃つか)
 しかし、と桂はためらった。そのすきに、道場の隅まで桂を押し付けた竜馬が、無造作に飛び込んで、びしりと面を撃った。据え物を撃つように。「面あり」
 あっけなく、桂の負けである。かつらには、ないことだった。しばらく茫然としていたが、さては、ときがついた。
(あれは単なる馬鹿胴だったのだ)
 意味と理を考え過ぎて、かえって自分に自暴呪縛になり、自ら竜馬の刀下にさしのべてしまったようなはめになった。
 桂は竹刀を取り直した。直ちに撃ちこんだ。竜馬が受ける。あとは桂らしい俊敏苛烈な攻撃が始まり、竜馬んに息もつかせない。面、胴、小手と相手を休ませずに撃ちまくるのが、桂の得意芸である。
 竜馬もさすがに押され、受けては撃ち、避けては撃つがいずれも浅撃ちで、どれも一本にはならない。
 浅撃ちは、桂も同然だった。おそらく双方、二十合は重ねたろう。真剣ならば二人とも、深傷、浅傷、十数創は負って気息も耐えようとしているところである。
 最後に、桂は退きがわに竜馬の胴を音たかだかと撃った。

 「胴あり」

502 御前試合 1857
2010/02/13
 当時の藩主、土佐の山内容堂は、文武熱心で、しばしば剣客を集めて試合をやらせた。御前試合といえば大げさだが、こんにちの剣道大会といったものである。
 私のみた仕合勝負表に安政四年(一八五七)十月三日鍛冶橋藩邸の一枚があり、審判員は神道無念流の斎藤弥九郎、鏡新明知流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉栄次郎のほか、島村伊佐尾、石山権兵衛ら五人である。
 出場剣士のなかには坂本龍馬もいるし、長州の桂小五郎、肥後の上田馬之助、千葉門下の俊足といわれた海部帆平といった使い手がずらりと肩を並べている。

○桂 小五郎    ○坂本 龍馬
 福富 健次     島田駒之助

 山本 卓馬     上田 馬之助
○小村 宗吉    ○星野 菊之助

○富岡 鉄之助   ×村上 圭蔵
 五味 政太郎   ×村上 宗助

 小野重四郎     菊池 寅吉
○奥田正五郎    ○石島 喜太郎

○水野 伊織    ○永富 第四郎
 小原久之助     佐治 栄之助

×越山 勇太郎    遠藤 才助
×西山 富次郎   ○丹羽 庫人

 菊池 寅吉    ○水野 伊織
○石島 喜太郎    小原久之助

○永富 第四郎   ×越山勇太郎
 佐治 栄之助   ×西山富次郎

×丸山 市之助    鈴木 辰弥
×岩堀 隼之助   ○加藤八太郎

○斎藤 歓之助    石垣 文次郎
 溝口 八郎    ○富田 能次郎

×坂部 大作     島村 伊佐尾
×小菅 駒之助   ○石山 孫六

 織田芳次郎    ○上田 馬之助
○星野菊之助     村川 宗助

○松沢 利太郎    足達 武之助
 中村 案太郎   ○川村 雄蔵

 斎藤四郎助    ○斎藤弥九郎
○村上 圭蔵     海部 帆平

 上田馬之助    ×桂 小五郎
○早田 千助    ×斎田尾三郎

 この試合表は、のち土佐藩剣術指南になった石山孫六の養嗣石山熊彦先生から提供されたものである。

 この試合、島田有利のおおかたの予想を覆して、龍馬が勝った。それも完璧な勝利である。
龍馬が床板を鳴らしてむみこみざまに上段から一撃すると、島田はばったりと前のめりに倒れた。
勝負あった。
体裁きの軽妙さで知られる島田駒之助を、真っ向からはたき落とした火を噴くような豪打だ。龍馬つよし。
場内が、しーんと静まる一瞬だった。
斎藤道場塾頭の長州藩士桂小五郎は、桃井道場の福富健次を俊敏な太刀先で軽く一蹴した。
安政5年正月、龍馬は念願の大目録皆伝をうけた。
第一の目標は達成された。名実ともに天下の大剣客となったのだ。剣をもって世に立つか。竜馬の気持ち次第では道場主になることもできる。時代は龍馬に政治の外で剣一筋に生きることを許すだろうか。

No.500 平位紘一さんの水彩画
2010/01/29
平位紘一さん(但馬豊川)朝来市和田山町出身
豊岡武蔵社長の友人
個展「菜果の詩」より「柚子と柿」
野菜や果物に短詩を加えることにより
独自性を出した新しい作品です。


宝珠寺2
2009/12/29
パンフレットです。

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